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交通事故犠牲者の手記「妹よ」

掲載日:2022年8月1日 印刷ページ表示

24年目にわかったこと

花の画像1

前橋市・女性

 24年前父は交通事故で亡くなりました。私が中学2年生、スキー教室の前日でした。あの事故以来、スキーは1度もしていません。
 酒酔い運転の車に衝突され、運転席に閉じ込められました。事故直後はまだ意識があったそうです。事故現場は交番の近くで、病院へ5分とかからない距離でしたが、救出に時間がかかり、随分時間が経過してから、病院へ搬送されたそうです。
 救急隊からの突然の連絡に、母は倒れました。そして、時間ばかりが過ぎて行きました。父の最期には、間に合いませんでした。
 眠っているとしか思えないほど、きれいな顔でした。私には、父とは思えませんでした。
 14歳の私には、死という意味が理解できませんでした。「病院に着いたときは、瀕死の状態ですぐに心臓が止まりました。電気ショックを1回、2回、それから胸をひらいて心臓を直接マッサージしました。力は尽くしました。」医師は、私を真っ直ぐ見ることができず、こわばった顔で説明しました。「家族が到着するまでは」と、その医師は、ずっと心臓マッサージを続けたそうです。
 母は泣き崩れ、私は頭の中が真っ白になって、何を聞いても何も感じなくなりました。
 救出には、警察、救急隊などたくさんの方が、懸命に救助にあたられたと聞きました。でも、あの時の私には、すべて『言い訳』としか聞こえませんでした。
 あれから24年経ちました。
 私自身、理不尽な交通事故に遭いました。停車中の私の車に、携帯電話中の車が追突してきたのです。頸椎捻挫ですみましたが、痛みとともに割り切れない気持ちでいっぱいでした。いろいろ考えているうちに、忘れていたことを思い出しました。ずっと気が付かなかった、あの時の父の気持ちが、わかるようになりました。
 事故後の検証でわかったことですが、父が衝突される寸前、事故を避けようとしてハンドルを精一杯切った跡があったことを思い出しました。生きていたいと願っていたと思います。あの時、妻と幼い子供達を残して、理不尽な最期を迎えなければならなかった父こそ、本当は1番つらかったのだと、やっとわかるようになりました。
 年を重ねると、今までわからなかったことが、少しずつわかってくるような気がします。
 今は、父の最期の気持ちを理解することができて、良かったと思います。理不尽な事故でしたが、警察、救急隊、医師、看護婦さん、多くの方に最善を尽くしていただいたことは、父にとって救いだと思います。心から感謝したいと思います。
  もしかしたら、都合のいいようにフィードバックしているのかもしれません。でも、これが残された者にとっての現実です。
 私は、事故後、普通救急の講習を受講しました。最近では、携帯電話で、心肺蘇生法などの救急医療措置が、図入りで見られるホームページも作成されています。1人でも多くの方を、救命できればいいと思います。
 被害者でなければわからない、つらく割り切れない気持ちを、多くの方に知っていただきたいと思います。
 交通事故の被害に遭われた方、後遺症で苦しんでいる方、たくさんのつらい立場の方も負けないでほしいと思います。
 そして、私達のようなつらい思いをする人が、いなくなってほしいと願っています。

花の画像2

交通事故で妻を失って

沼田市・男性

 それは6月29日の昼近くでした。勤めに行っている筈の長男が不意に帰ってきて、「おばあちゃんが交通事故だ。」と大声で叫んだので、一瞬目の前が真っ暗になってしまいました。
 剪定した庭木の枝など片付けていた私に、10時頃、「一寸、お使いに行って来ますよ。」と言って出ていったばかりなのに、取るものもとりあえず、長男と収容されているという脳外科病院に駆けつけましたが、すでに意識もなく人工呼吸器でやっと生きている状態でした。
 医師の説明によれば、脳挫傷ですでに脳死に近い状態であるとのこと、そして、わずか13時間ばかりで息を引き取りました。どこにも外傷らしいものはないのに、頭を強く打ったためとのことでありました。
 そして、事故当時の様子を聞くにつれて、何ともこらえきれない口惜しさと悲しみで居たたまれない気持ちになりました。
 何時も誠に用心深い人なのに、しかも青信号で横断歩道を通行中、右折してきたトラックに跳ねられてしまったのです。こんな馬鹿なことってあるでしょうか。当人には全く過失すらなかったのに、不注意きわまりのない無法なトラックに当てられたのですから、50キロ足らずの妻はひとたまりもなく飛ばされたことであろう、何とも無惨なことであります。
 妻は81歳とはいえ、心身共にしっかりしており、この日も徒歩で自宅から銀行により、郵便局で口座を作り、そして、デパートで買い物などをしての帰り道でありました。そこで、わずか1秒か2秒でも違いがあれば事故にも遭わずにすんだものを、と悔やまれます。
 自分では、いくら規則を守りどんなに注意深くとも、無法な相手にかかれば如何とも仕様がないものかと痛感しました。そして、後になって加害者に会ってみれば、24歳の若者でした。私から見れば孫ぐらいの年代です。いかに恨んでみても又謝られてもかけがえのない生命を断たれてしまった口惜しさ、無念さは癒すことはできません。
 私にすれば、50数年苦しみや喜びを共にしてきた糟糠の妻。子供や孫たちにすれば、やさしく色々世話になったおばあちゃんの突然の死に、その悲しみは言葉に尽くすことはできません。
 81歳といえば、あと何年生きられるか、短い年月しか残っていないかも知れませんが、それだからこそ貴重な年月です。加害者は24歳、そして、何年か無駄をしても長い将来があります。何とも情けないことではありませんか。
 車社会ですが、私はとうとう車を覚えずじまいでしたが、子、孫の代ではほとんどが車を運転し、又将来運転するようになりますが、走る車は誠に便利なものです。しかし、1度誤れば大きな凶器になり、人を傷つけ又殺めることになります。絶対に事故を起こしてはなりません。
 交通事故を他人事のように思っていましたが、事故の悲しさ恐ろしさを思い知りました。
 子や孫たちには、肝に銘じて、他人に、この様な悲しみを負わせないよう、きつく戒めました。

花の画像3

妹よ

佐波郡 女性

 「A子がぁ、A子が死んだあ!」
 私の両肩を激しく揺すり、泣き崩れる父。母が、遠くで呆然と立ち尽くしていました。何も知らず、その朝、家族は、それぞれの職場へと向かい、突然私を迎えに来た父。それが、妹の死を知った瞬間でした。私の体の中の血が全て足元に落ちて、全身が冷たくなっていくのがわかりました。
 夢を見ている様な気持ちのまま、ようやく警察署に辿り着きました。そこで、最初に目にしたのは、妹を轢いたと思われるトラックでした。 タイヤには血を水で流した跡がありました。大人の背丈もある大きなタイヤに驚き、そして、警察の人に聞かされた言葉には、皆、耳を疑いました。
「誠に言いにくい事ですが、娘さんの頭は、ありません。」達は、愕然としました。妹は、目も鼻も無く、頬は口から耳まで深く裂け、頭からは脳みそも出てしまい、血で染まった包帯が巻かれていたのです。手足は、すり傷と骨折で無惨な姿でした。どれだけ妹が苦しみ、痛い思いをした事か。私達は妹の体にすがりつき、ただ、ただ泣き続けるだけでした。
 その年、妹は高校を卒業し就職したばかりで、まだ18歳の、これから沢山楽しい事があるはずだった妹の青春が、心ないドライバーによって踏み潰されるなんて、ひどすぎます。妹は、自転車できちんと青信号を直進していたのに、ウインカーを出したか覚えていず、ミラーも確認せずに、左折巻き込み防止窓も人に見られるのが嫌だったからと座布団で隠して、妹が左側にいるのにも気づかずに左折して、自転車ごと何メートルも引きずって行ったなんて信じられません!
 父と母にとって、妹をこんな形で失った事は、想像以上に辛く悲しいものでした。私達は、笑う事を忘れ、何をしていても妹の事を思い出しては泣き、父母は、口もきけない日々が続きました。私には、そんな両親をどうやって慰めたら良いのか、全くわかりませんでした。「さようなら」の言葉も言えず、最後に、妹の顔も見る事さえできなかったあの時の悲しみ、辛い悔しさは、9年経った今も、決して癒える事はありません。
 今、私も母になり、子供を亡くした両親の心の痛みは、あの時以上にわかる様になりました。
 一歩家を出ると、猛スピードで走り去る車
 ヘルメットをかぶらずに走り去るオートバイ
 携帯電話をしながら片手運転する人
 お酒を飲んでいるのに「大丈夫」と平気で車を運転する人
を見かけます。そんな人達に、是非、知って欲しいのです。あなた達にとって、大切な人を失うという事が、どれだけ辛く悲しいものか。死ぬという事が、どういう姿になる事か。加害者も被害者も、今まで築き上げて来た幸せな生活も思い出も全てメチャクチャになり、耐え難い苦痛が待っているのです。これが、交通事故の現実なのです。
 「妹よ、天国での暮らしはどうですか。あの時の傷は、神様が治して元通りの体に戻れたことと願っています。辛く悲しい時に、側にいてあげられなくて本当にごめんね。姉ちゃんは、一人っ子になってしまったけれど、お前の死を無駄にせず精一杯生きるよ。あと、どれだけ涙を流したら、お前は帰って来られるのだろう。あと、どれだけ苦しんだら、お前に会えるのだろう。今度、生まれ変わったら長生きできる命をもらって、また家族になろうね。姉ちゃんは、ずっとずっと待っているよ。」